底辺女の走馬灯

最初で最後の記録

8)一時保健所での過ごし方~学習編~

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そこは、”一時保健所”と言われる場所だった。たった今ググって名称を知ったので、当時は何の施設だったのか勿論よく分かっていなかった。何故自分がそこにいるのかも理解していなかった。

保健所の中では、一切の私物の持ち込みが禁止だった。

ランドセルは勿論の事、着ていた衣服から下着に至るまで全てボッシュートされた。

代わりに保健所内で着る服が与えられ、着替えた。ここら辺も記憶が怪しいので、事実と異なる可能性は否定出来ない。が、与えられた下着等に自分の名前を書いたような気がするので、多分間違ってはいないと思う。うーん、、、どうだろう(やっぱり曖昧)

 

保健所では、いつでもどこでも他の子たちと学校のように集団生活をして過ごした。年下の子もいるし、中学生の子もいた。

前述した通り、一時保健所では一切の外出が認められない。という事は、学校にも通えない。

ではどう過ごしていたのかというと、各々の学習能力に合わせたドリルが配られ、それをひたすらこなす、という勉強をしていた。自分の学年のドリルではなく各々の学習能力に合わせるというのは、様々な事情で預けられてきた子供たちに対する考えられた対応だった。

中二か中三くらいのショートヘアの女の子に、「あなたそんな難しい問題解いてるの!?すごーい!!」としこたま元気に褒められた。勉強で褒められた経験が皆無だった私は普通にめちゃくちゃ嬉しかった。一瞬でその子の事が好きになった。

その子は小2くらいのドリルに苦戦していた。中学生が私でも解ける問題に苦戦している事実に驚愕した。みんな、今までどんな生き方をしてきたんだろう、と周りの子たちに興味が湧いてきた。けど、それだけは聞いてはいけないという事は空気で感じとっていて、最後まで誰にも聞くことはしなかった。

余談だが、かく言う私も元自宅警備員だったので、小学生で習うべき所で抜けている所が未だに結構あると思う。分数は、足し算引き算の前に掛け算割り算を習得した。掛け算割り算のタイミングで学校に復帰したからだ。いつまで経っても足し算引き算Ver.やんねーなーと思っていたら、とっくに終わっていた、という事は結構後になってから知る事になった。

 

運動の時間はというと、着替えて体育館へ移動し、事前に支給されていた運動靴に履き替え、ひたすら体育館をグルグル走る、という事を延々やらされた。長距離走が大嫌いだった私だが、あまりにもそれしかやらせてくれないので、私もムキになって次は前回より多く周ってやる!!と躍起になっていた。おかげで少し体力が付いたと思う。カーブの曲がり方も上手くなったと思う。

因みにミニバスでは万年補欠だったので大して体力は無かったと記憶する。

 

続く。

7)住み慣れた我が家(吉幾三ボイス)との別れ

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小学5年生の冬、私は放課後ミニバスに勤しんでいた。

ミニバスの顧問だった担任の先生が、体育館の外から慌てた様子で私を呼んだ。そして、急いで帰る仕度をして、と言ってきた。何かとんでもない事が起きている事は瞬時に察した。

先生は私に付き添って、歩いて私の自宅まで送ってくれた。その時に、何が起きたのかを説明してくれた。しかし、ここでも私の残念な脳みそは炸裂し、どんな説明をされたのかは全く覚えていない。ただ、私は話を聞いて泣いた記憶はあるので、その時は話を理解していたのだと思う。先生は歩きながら私の肩をぐっと掴んで支えてくれた。

ここまで書いてきてふと思ったのだが、人間の記憶は言葉よりもその時の情景の方が記憶に残るのかもしれない。

 

マンションの前まで行くと、見知らぬ黒いワゴン車が1台止まっていた。というか我が家は東京住みという事もあってか、車を所持していなかった。中一だった兄は既に車の中で待機していた。おそらく時刻は17時~18時くらいだったと思う。冬だったのでもう辺りは真っ暗だった。

車の周辺には2~3人の男性が居たと思う。マンションの中からこれまた見知らぬ黒いダウンコートを着た母と、男性が1人出てきた。母は憔悴しきった様子だった。

母と私はワゴン車に乗り込み、男性の運転でどこかに向かっていった。慣れ親しんだマンションには、これっきり帰れなくなった。

 

駅で言うと何処だったのかは覚えていない。その日から1週間ほど、見知らぬマンションでの生活が始まった。家具家電は揃っていたと思う。レオパレス的な所だったのだろう。私は暢気にも少しはしゃいでいた。

学校は兄と電車で通う事になった。電車通学は初めてだったので凄く緊張した。私は小学校、兄は中学校だったので、帰りはどうしたのか覚えていないが、おそらく待ち合わせをして一緒に帰ったのだと思う。

1週間後、今度はとある場所の施設まで兄と私は連れていかれた。母とはここで別れた。施設の中に入ってからは、兄とも別々になった。

この施設で、約2週間一歩も外には出られず、寝食する事になるとは流石に思っていなかった。

 

続く。

 

6)人生の転換期の幕開け

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自宅警備員はそれなりに長い期間やっていたと思う。

本当は学校に行きたいという気持ちはあったのだが、生活習慣は乱れ、昼夜が逆転しつつあり、朝になるとどうしても起きれず「今日も休む~」を繰り返していた。母は何も言わなかった。

 

ある日、家にセールスマンらしきスーツを着た男がやってきた。

高級羽毛布団を買わせようとしている様子だった。しかし、当時の私はセールスマンというものを初めて見たので、不信に思いつつもそいつが警備対象になるとは思っていなかった(その人は普通に仕事してただけだと思うが)。

母は羽毛布団を気に入り、買おうとしていた。てか多分買ってた。そこら辺は記憶に無い。

セールスマンは不審な目で見つめる私を見て、「学校行かなくて良いの?」と至極全うな問いを投げかけてきた。猛烈に恥ずかしい気持ちになった。そして一瞬でそいつの事が嫌いになった。

私は何も返事をせず、母もこれといって特にフォローもせず、とにかく私はとっとと出ていきやがれ!!とセールスマンに念を送り続けていた。

だが、この恥がきっかけで、私はまた学校に行こうと思い始める事になった。

 

この辺から更に記憶の時系列が曖昧になってきている。今の自分なりに順を追って書こうと思う。

ある日、父が帰宅するなり、「入院する事になった」と言ってきた。

母は「え!?」と驚いていた。私も驚いていたが、言葉は何も発せなかった。

父は大丈夫大丈夫、と言っていたので、そこまで大きな病気でもないのだろうと楽観視していた。

 

お見舞いは、母に一度だけ連れて行って貰ったきりだった。

病室に着くなり、母は泣き出した。それを見た私もつられて泣いた。父は困ったように笑って「泣くなよ~」と慰めていた。

その後父とどんな会話をしたかは覚えていない。これから何度もお見舞いに行けると思っていたので、あまり気にしていなかったのもあるかもしれない。

母はそれ以降、お見舞いに行くよとは一度も言ってこなくなった。

難しい性格の母と会話をするのが苦手だった私は、「何で行かないの?」と一度だけ聞いた。スルーされて終わった。何度も言ったところで母の気が変わるとも思えなかった。一度だけ電車に乗って行った大学病院だったので、病院の名前も行き方も分からず、どうしようもなかった。

 

だいぶ月日が経ったと思う。私は徐々に学校に通えるようになっていた。

小学5年生の頃は、担任の先生の勧めでミニバスをやっていた。運動が得意だからではなく、苦手過ぎたのでどんどん運動させよう、というのが目的だったようだ。

バッシュやら揃えるのにはお金が掛かる。母はミニバスをやる事を止めなかった。

父が入院してからも母は専業主婦のままだった。何で母は働かないのだろう。貯金を切り崩して生活しているのかな、と生ぬるい頭の私はぼんやり考えていた。家計簿と睨めっこする母をよく見るようになっていた。

 

続く。

 

 

 

5)門番の母に立ち向かう小学生兄妹

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ここで、私が小学生時代の母の思い出を語ろう。小学校は6年あるので、そりゃ話題は色々とある。

両親は酒、タバコ、パチンコが趣味だった。父が泥酔した所を見た事は無かったが、母はしょっちゅう酔っぱらっていた。というか、印象が強すぎてそんな所しか記憶に残っていないだけかもしれない。

 

専業主婦になってからの母は、家事は一通りこなしていたが、あまりにも子育てに関しては向いていなかった(何様だよと言われても仕方がないが、傍で見てきた実の娘としての意見なので悪しからず)。

タバコを吸っている間はこちらが何を話しかけてもガン無視、珍しく宿題を覚えていた時も、分からなくて教えてと言っても私も分からないと断られる(大人になった私も教えられる自信は無いからこれは仕方がない)。

 

下校して帰宅すると、玄関の鍵がかかっていた。母は下校時間は常に家に居るので鍵は持っていない。チャイムを何度鳴らしても応答が無い。買い物にでも行っているのかとその場で待つも、待てど暮らせど帰って来ない。それは1度ではなく、何度も起きた。

一度、兄が公園の公衆電話から仕事中だった父に電話を掛け、わざわざ家の鍵を開けるためだけに電車に乗って来てくれた事もある。

父の召喚をしなくても、私たちが少し成長すると、今度は兄がマンションの隣の塀からベランダ付近まで渡り、塀からベランダまで飛び移って鍵が開いていた窓から侵入して玄関の鍵を開けてくれた事もあった。2階だったとはいえ、1階の庭には大きな庭石があり、落ちたら大けがをしていただろう。その時の兄は勇者に見えた。しかし、小学生でも侵入できる家に住んでいたとは、平和な地域に住んでいて本当に良かった。

そして毎回母はというと、リビングで大の字で寝ていたのであった。

いつしか、鍵を持ち歩く許可を貰った。鍵っ子に密かに憧れていたので嬉しかった。

 

昼間から酔っぱらっていた母親に強制的に閉め出された事もある。

母は何か知らんが初っ端からブチ切れており、玄関のチェーン越しに2~3千円を兄に渡すと、「これで本でも買ってこい!!」と言って玄関の鍵を閉めた。キレ方が謎である。

私はその時に「にじいろのさかな」という絵本を買った。いや、買いたかったのだが、確か高くて兄の分の本も買ったらお金が足りず買えなかった。私は後日母に泣きついて、「にじいろのさかな」を無事に買って貰えた。大好きな絵本の一つである。

 

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続く。

4)小学生自宅警備員爆誕

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授業が嫌で、小3辺りから少しずつ学校に行かなくなっていた。それでもたまに気が向いたら行っていた。担任の先生も気にかけてくれていた。

もはや小3だったか小4だったかは定かではないが、ある日クラスに女の子の転入生がやってきた。Kちゃんと名付けよう。

勉強には全くついていけなかった私だが、この頃はまだコミュ力お化けだった私は、Kちゃんに積極的に声を掛け、友達になった。私はクラスのほぼみんな友達だと思っていたタイプだった。実際、あの頃のクラスメイトは私立ではなく都立だったのにも関わらず育ちが良い子が多く、いじめなどは無かった。

一度、下校中にクラスの男子たちがふざけて私たち女子を追いかけ回し、一人の男子が私のランドセルを思い切り突き飛ばし顔面から転ばされた事はあるが、男子はその事をちゃんと自分から親に伝えたらしく、母が激おこ電凸する前に男子と男子の母親が二人で家まで謝罪しに来てくれた。まぁ、母の怒りはそれでも収まらず(私が女の子だったからかも)、学校にもその後連絡が行き、翌日の朝礼で私は先生に前に立つよう言われ、クラスメイトが注目する中、傷だらけの顔面を晒し「こんな事しないように!!」と怒ってくれた。私は昨日の謝罪でもう許していたので、どちらかと言うと先生のこの行動の方が恥ずかしくて迷惑だったのだが、私を思っての行動だという事は理解していたので何も言わなかった。先生には恵まれていたと思う。

 

Kちゃんに話を戻そう。Kちゃんとは、私から誘って街案内と称して駅近のカフェでお茶をした記憶がある。

どこのOLやねん、というツッコミが聞こえてくるが、自分でももっと他に無かったのかなと振り返って思う。お小遣いの範囲だったので、ドリンク一杯で二人で語り合っていた。仲良くなれた気がしていた。

記憶断片マンの私は、いつからKちゃんの様子がおかしくなったのかは分からない。いくらか時が経った頃、Kちゃんは私がいつも一緒に行動していた女子グループの輪の中に入っていた。最初は私が誘ったんだと思う。みんなで仲良く過ごしたかった。

でも、唐突に、仲間外れは始まった。Kちゃんは気付いたら私がいた女子グループの中心的存在となり、みんなを引き連れて私を遠巻きに見てはコソコソ話したり、クスクス笑ったりするようになった。みんなについていこうとすると、「なんかついてくるんだけどー。やだー」と言われたので、追うのをやめた。女子グループの他の子たちは戸惑った様子だったが、誰もこんな事やめようよ、とは言わなかった。今までこの学校でこんな事起きた事が無かったから対処方法が分からなかったのもあるし、みんなもKちゃんが怖かったんだと思う。

 

授業にはついていけない、仲の良い友達とも話せない、あまりのショックで先生や他のクラスメイトに相談する勇気も湧かなかった私は、本格的に学校を休むようになった。小学生にして自宅警備員に抜擢された瞬間である。

 

続く。

 

 

3)兵十とごんぎつねはズッ友だった小学生時代

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保育園を無事卒園し、私は小学生になった。

入学式は薄いピンクのワンピースを着ていく予定だったが、見事に風邪を引き休んだ。勿論ギャン泣きした。ピンピンしてたけど、確かに熱はあったんだと思う。

集合写真では上端に丸く顔写真が載っている筈だ。残念ながらアルバムで確認する術は無いのだが、どうしてかは後々分かると思う。

 

保育園時代とにかく遊び倒した私は、小学生になっても遊び倒した。毎日放課後誰かと遊んだ。この頃は男女分け隔てなく遊べたので、毎日が楽しかった。

給食の牛乳は瓶だったので、蓋の包装を剥がしてキャップを開け、一気飲みする所までを同じ班の子たちと毎日競っていた。罰ゲームは何だったか忘れたが、牛乳瓶はキンキンに冷えてやがったので、しょっちゅうお腹を壊していた。

徐々に小学生ライフの雲行きが怪しくなってきたのは、もう間もなくの事である。

 

私は小2辺りから勉強についていけなくなった。まず、掛け算が覚えられなかった。

みんな道徳の時間にざわざわ森のがんこちゃんを観ている中、私と他数名は別室で延々掛け算を暗唱させられた。特に7の段が鬼門だった。7の段を力の限り捻り出し、歓喜していると8の段をド忘れした。間違えるとまた1の段からやり直しだった。苦行だった。

 

正直、小学校の低学年から中学年の頃の記憶はあまり無い。時が経って忘れたとかではなく、当時から記憶が断片的だったからだ。

それを象徴する出来事として一番印象に残っているのは、小4の頃の出来事。小4と分かったのは、「ごんぎつね」を学ぶのは小4だとググって知ったからだ。

ふと気付いたら、既に国語の授業が始まっていた。自分の机を見ると、一応国語の教科書とノートは出してある。だが、出した記憶が無い。

周りを見ると、みんな教科書を読んでいる。でも何ページか分からない。どうにか隣の男子の教科書のページを盗み見、慌てて教科書を開く。

「ごんぎつね」の終盤に差し掛かっていた。困った、ここまでのストーリーが全く分からない。「ごんぎつね」はおそらく何日かに分けて授業していたと思うのだが、それまでの記憶が一切無い。

ここで、先生が「兵十はごんが倒れた後、どんな気持ちだったと思いますか?」と生徒に投げかけてきた。先生とバチリと目が合う。私が当てられた。

私は小4にして、”ごんは倒れた”という情報だけで、兵十がどんな気持ちかを推測するという、ハイレベルな質問をされていた。

だが、不思議なことにその時の私は正規ルートを辿る自信があった。

自信満々に私は「ごん!安らかに眠ってね!おやすみ!」と答えた。ドヤ顔で。

周りの同級生は少し「え?」って感じでざわざわした。先生も何とも言えないリアクションをしていた。次に他の生徒が当てられた。その子は「ごん!死なないでくれ!」と答えた。どうやらこれが正解だったらしい。

へ~、そんな話なんだこれ、と思うのと同時に、私の回答とんだキチガイじゃん・・・

(当時はキチガイなんて言葉は知らない、というか恐らくまだ無かったと思うので、そんな感じの感情だったという意味)と、恥ずかしい思いをした。

 

ごんぎつねの話は下記に載せておく。私は未だ全文読んでないし詳細は知らないままだ(読めや)

ごんぎつね 全文

 

記憶が無い状態が断片的に続くという、私の中だけで起こっている現象は、周囲にも気付かれなかった。自分からも誰かに相談しようとする発想が無かった。とにかく自分が落ちこぼれだと思っていた。

宿題を出された記憶も無いので、しょっちゅう怒られては席の後ろに立たされていた。出された事を覚えていれば私もやりたかったのに、覚えていないから出来ない。サボり魔扱いされるのが悔しくて悲しかった。授業も勿論どんどんついていけなくなった。

父は毎日夜遅くまで働き、私が小学校に上がったタイミングで専業主婦になっていた母は、勉強の事に関しては非常に無関心であった為、家族からのフォローも何も無かった。段々学校に行くのが辛くなってきた。

 

続く。

 

 

 

2)セルフSMプレイに励んだ保育園時代

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保育園の頃はあまり記憶が無いのでエピソードも少なめだが、私自身の話としては、とにかく貧弱だった。

出生時は3600gほどあった体重が、保育園にもなるとみるみる痩せ細っていった。本気で骨と皮しか無い状態だった。

私自身は元気だと思っていたが、周囲の大人が心配しまくる。というのも、私はとにかく偏食だった。

肉ダメ、野菜ダメ、焼き魚ダメ。好きな食べ物はお菓子と納豆と朝マック。寿司屋の板前ということもあり、父がよく刺身を持って帰ってきてたそうだが、ぶっちゃけあまり記憶にない。

また、母からの食事のしつけが異様に厳しく、食事の時間が大嫌いだった。それもご飯をあまり食べなかった原因だったと思う。両親はさぞかし苦労したと思う。

 

中耳炎やアトピーにも悩まされており、しょっちゅう病院に通っていた。中耳炎の治療はめちゃくちゃ痛くて毎回泣き叫んだ。これ前回もやったぞ!?何で1回で治してくれねーんだよ!!って内心キレてた。言葉が発達していないだけで、思考は大人とさほど変わらなかったと私は記憶している。

余談だが、この頃の私は中耳炎の事を「中児炎」だと思っていて、子供がかかる病気だと思っていた。なので耳鼻科に大人の患者がいる事が不思議だった。

 

保育園ではというと、運動がこの頃からまるで出来なかった。でも階段は4段飛ばしくらいでぴょんぴょん飛び降りてた。怖いもの知らずとは末恐ろしい。

今の私の趣味はイラストを描く事だが、この頃からお絵描きには夢中だった。字もまだ読めないくせに、父が漫画雑誌「なかよし」を買ってきてくれて、当時はセーラームーンが連載されていたので、綺麗なカラーイラストを眺めては模写しまくっていた。

友達で上手い上手いともてはやされてた子が居たが、その子は頭が異様にデカい女の子の絵を描く子だったので、内心全体のバランス的にも私の方が上手いだろと思ってた。大体いつも負けるくせに無駄に負けず嫌いだった。性格も良くはなかった。あ、それは今もだ。

お昼寝の時間は、指をしゃぶる癖が治ってなかったのが恥ずかしくて、いつも布団を頭まですっぽり被って寝ていた。でも毎回先生にはがされて、慌てて口から指を抜いていた。おもらしはたまにしていた気がする。

戦隊モノのごっこ遊びでは、悪役に捕らわれた一般人役が好きで、あまりやりたがる人もいなかったので積極的に取り組んだ。捕まったり、縛られたり(実際は縛ったりしないので妄想の中で)されるのが好きだったので、天性のドMだった。この性癖が恥ずかしい事だとは当時から何となく分かっていたので、誰にも話したことは無い。

 

保育園時代はこんな感じだったと思う。この頃はまだまだ平和な時だった。

 

続く。