15)もう一つの家族との別れ
春になった。みんなで動物園に行った。
ふれあい広場でモルモットを抱っこした。凄く可愛かった。その時の写真も例のごとく実家のアルバムに保管されている。
お昼はみんなで作ったお弁当を食べた。美味しかったと思う(相変わらず食には無関心だったので記憶があまり無い)。
春休み、みんなでショッピングに出掛け、私は職員が貯めておいてくれたお小遣いで靴を買った。私は実の家族と離れている間も少しずつ成長していて、足のサイズがワンサイズ大きくなった。
みんなとの別れの時がやってきた。
施設にいる間、一度だけ母と伯母が面談に訪れてきた事がある。
母は、とても猫背になっていた。しょぼくれた雰囲気がいたたまれなかった。
伯母は昔から明るくて、元気をもらった。おみやげに手のひらサイズのアクセサリー類が入ったケースを貰った。施設のルールでは親族等から何か貰ったりするのは、他の子達に影響が出るから本来禁止されていたが、私は内緒にするという条件で許された。おつむの弱い私は、秘密事を守るのが非常に苦手だった。速攻バラしてしまった。職員は呆れていた。
桜が咲き始めた頃、母は兄と私を迎えに来た。やっと、今度こそ家族での生活が再スタートすることになった。
施設のみんなとの別れはやっぱり寂しかった。共に生活した数か月は、当時の私にとってとても濃密な時間だった。コミュ障だったけど、喧嘩出来るまでの間柄になれた事が嬉しかった。みんな泣いて別れを惜しんでくれた。私も泣いて、何度も後ろを振り向きながら見えなくなるまで手を振り続けた。
ふと兄を見ると、しれーっとした顔で前を真っすぐ見て歩いていた。兄には感傷に浸る思い出などは特に無かったようだ。
続く。
14)体調不良
施設内には医師が常駐していた。他にも、琴やら何やら習い事が習える環境が整っていた。
私はまだアトピーが治っていなかったので、そこで塗り薬を処方して貰った。
毛布は肌に良くないからと、薄い掛け布団だけで真冬を過ごした。めちゃくちゃ寒かった記憶がある。そしたら華麗に風邪を引いた。
その日の朝、具合が悪くて職員に学校を休みたいと伝えたが、体温を測りもせずに行きなさいと若干怒られ、仕方なく学校に向かった。でも朝の会が始まる前からどんどん具合が悪くなっていって、その事に誰も気付いてくれなくて、悲しくなって自席でポロポロと泣いた。
やがてクラスメイトの女の子が私の異変に気付いてくれて声を掛けてくれ、私が体調が悪い事を訴えると担任の先生に伝えてくれて、施設の職員に連絡が行った。職員はすぐ車で迎えに来てくれて、そのまま病院に向かった。体温は38℃を超えていた。少しだけ点滴を打って帰った。
帰りの車ではお互い無言だった。ごめんねの一言が欲しかったが、無かった。槙の部屋の担当職員は3名で交代制だったが、その時の職員が一番嫌いになった。
その日から毛布を与えられた。めちゃくちゃ暖かかった。学校から帰ってきた子達が心配してくれて嬉しかった。
何年も皮膚科に通っていたのに治らなかったアトピーだが、ここで貰った塗り薬を塗ったらみるみる治っていった。そしてなんと完治した。施設に来て一番嬉しかったことは、アトピーが治った事だった。施設を出てからも暫くの間は再発が怖くてお守りのように塗り薬の容器を保管していた。
施設内の習い事は他の子もやっていて、私は琴を習ってみないかと誘われて部屋まで行ってみた。
着物を着た琴の先生は優しそうで、緊張して正座をしていた私に足を崩して良いのよと言ってくれたが、変な所頑固な私は体験教室が終わるまで終始正座で過ごしていた。勿論足は痺れた。
琴をやってみたいなと思っていたが、結局やる機会は訪れなかった。
続く。
13)児童養護施設での生活
施設での食事や掃除は当番制だった。
一時保健所では給食のように完成済みの食事が運ばれてきてそのまま食べていたが、施設では時間になると外の食材置き場に各部屋から当番がぞろぞろと向かい、自室の分の材料を持って帰って各部屋のキッチンで調理をする。
私は母から料理を殆ど教わってこなかった。包丁を使ったり、餃子の皮をにぎにぎしたり等のお手伝いをした事は何度かあるが、そのうち私がいると余計時間が掛かると台所に立たせて貰えなくなった。
施設で私は主に味噌汁を率先して作った。味噌って意外と量使うんだなぁ、と学んだ。濃さは毎回一発OKで、職員さんに褒められて嬉しかった。
お風呂は大浴場とかではなく、普通の一般家庭レベルの広さだった。本当に部屋の内装はマンションそのもので、みんなとは家族のように過ごした。
入る順番は特に決まっていなかったと思う。最年長の中学生Hちゃんだけは毎回一番最後に1人で入っていたくらい。私は同室の子とか、5歳の男の子とか、同い年の子とか、色んな子と一緒にお風呂に入った。
東京のマンションを旅立った時は既に冬。まもなく学校は冬休みに入った。
クリスマスとお正月も施設で迎えた。雪が降って積もり、別室の子も交えてみんなで大きな雪だるまを作ったり雪合戦をして遊んだ。
3学期が始まり、2/3の豆まきも盛大に行った。行事ごとはあらかた行った。
当時、漫画雑誌なかよしで”カードキャプターさくら”が連載していて、私は長らくドはまりしていた。施設ではお小遣いも支給されたため、同室の子に道案内を頼み、長い道のりをかけて本屋へ行ってなかよしを購入した。最終回のタイミングだったため、見逃すわけにはいかなかった。
家に帰ると、部屋の中ではみんなでかくれんぼ大会が開催されていた。中一のHちゃんに私たちもやるかと聞かれ、同室の子は参加したが、私はどうしてもなかよしが読みたかったので断った。
自室で1人机に向かい、丁寧に最終話を読んだ。巻頭カラー見開き扉ページをジーっと眺めた。あぁ、終わってしまった・・・と何とも言えない気持ちに暫くの間浸っていた。
読むべきものは読んだので、断って申し訳なかったなと思い、今からでもかくれんぼ参加しても良い?と声を掛けたら、中一のHちゃんはとても怒っていて、「やりたくないんでしょ」と言って参加させて貰えなかった。また自室に戻って1人ひっそり泣いた。
続く。
12)はじめての木造校舎
また監禁生活かと思いきや、児童養護施設では普通に学校に通う。
とにかく田舎だったので、学校がひたすら遠い。実際どれくらいの距離だったかは忘れたが、体感片道1時間はあったと思う。集団登校だったので朝は迷子になる事は無かった。通学バスとかあっても良かったのではと思う。
学校は、まさかの木造二階建てだった。東京生まれ東京育ちの私としては、ここでの生活は全てが衝撃で新鮮だった。
5年生は2クラスで、同室の同い年のNちゃんとは別のクラスだった。
東京の小学校では机の並びは教卓向きに縦に整列されていたが、ここでは教卓を囲むように半円の形で並んでいた。
私はまたしても授業で躓く事になる。何をやっているのか全く分からなかった。
当時を振り返って兄は、「あそこは授業の進行が遅くてレベルが低かった」と言っていた。兄は物心ついた頃から私と違って優秀だった。東京の頃の学力は普通だったようだが、運動は部活に入らなくてもリレーの補欠に入る程度には出来ていた。何をするにもそつなくこなすタイプの人間だった。私と違って毎日学校にも行っていた。
私は、どっちが進行が早くてどっちが遅いとか判別が付かなかった。何故なら、教わったそばから忘れる脳みそだったからだ。
私は施設で自宅警備員をするわけにはいかなかったので、必死に授業内容を把握しようと努めた。先生は気を遣ってか、私を当ててくる事はしてこなかった。
校舎の階段付近の廊下は薄暗く、階段脇には立派な鷲やら狼やらの剥製が並んでいた。私は掃除当番で階段の掃き掃除担当だったのだが、雰囲気が怖くて毎回半泣きだった。校舎全体がお化け屋敷みたいで、1人でトイレに行くのもビビってなかなか行けなかった。
そう、トイレ問題は私の中でとても深刻だった。下校時は集団ではなく、各々タイミングが合った子と一緒に帰る感じだった。私は方向音痴で長い道のりを覚えられる自信が全く無かったので、いつも施設の同室の子と一緒に帰っていたのだが、下校時刻になると私の膀胱サイクル的に、毎回若干トイレに行きたくなっていた。でもトイレに行っている間にみんなが帰ってしまったら、私は施設に帰れなくなる。
「トイレに行ってくるからちょっと待ってて」と言えば済む話だったのだが、東京時代のコミュ力は、転入生Kちゃん(パート4参照)からのいじめの経験や度重なる環境変化により、銀河の彼方へと旅立ち、私はガッチガチのコミュ障へと変貌を遂げていた。私はトイレを我慢しながら約1時間の道のりを帰宅する事になっていた。
私は、何度かトイレがギリギリ間に合わず、おもらしをした事がある。多分みんなにはバレていなかったとは思うが。
小5にしておもらしをしているのが情けなくて、でも誰にも言えなくて、本当に悩んでいた。
続く。
11)再び集団生活、開幕
保健所に戻ってから出所するまで、日数はそこまで掛からなかった。
とうとう保健所を出る日がやってきた。
来た日に着ていた私服を渡され、袖を通す。ランドセルを背負う。
兄と2週間振りに再開した。ここに来てから、本当に一度も一切顔を合わせる事は無かった。男女の部屋は完全に分かれて隔離されていたからだ。
私は、やっと家族とまた生活が出来ると思っていた。
でも、現実はそう甘くは無かった。
今度は、またよく知らん大人に連れられ、兄と二人東京を離れ某県までやってきた。こう言っちゃアレだが、クソ田舎だった。山、畑、山、山だった。
そこに、団地のようにいくつか建物が並ぶ施設があった。児童養護施設だった。
兄ともまたすぐ別れて、それぞれ男子寮、女子寮に入っていった。
各部屋に、表札の代わりに花の名前が書かれていた。私の家は確か槙だった。あれ、槙って木じゃね?的なツッコミを当時も施設に馴染んできた頃に入れていた気がする。
施設の職員から、今日から私はここで生活する旨を伝えられた。
ここに来て、やっとまともに状況説明してくれる人が来た、と思った。
もしかしたら私がちゃんと聞いていなかっただけで、毎回しっかりと説明があったのかもしれないが、私は多少なりとも現状を理解した状態で施設生活のスタートを切る事ができた。
「槙」の家は5LDK構造だったと思う。そこに、私を含めて8人の子供が共同生活を送る事になる。
一番小っちゃい子は男の子のIくん。3歳。
その上が女の子、Aちゃん。4歳。
その上が男の子、Sくん。5歳。未就学児は女子部屋で生活するルールだった。
その上はMちゃん、7歳。
その上はKちゃん、10歳。私はこの子と同部屋だった。
私と同い年のNちゃん。11歳。
一番年上は中一で、兄と同い年のHちゃん。
職員には別途職員の部屋があり、24時間体制で槙の家の子供たちの面倒を見ていた。
最初、槙の家のみんなは全く歓迎ムードではなく、むしろ何故かギスギスとしていた。そんな空気を察し、早くも逃げ出したかった私であった。
続く。
10)5年間とのお別れ
ある日、一時保健所に担任の先生がやってきた。久しぶりの再会だった。
保健所では何故か各自1本ジーパンが支給され、そして何故か私にはオーバーオールタイプが支給されていた。それを着て、これから小学校に向かうとの事だった。
私は学校を転校するらしい。
小5の当時のファッションで、ジーンズ素材のオーバーオールはクソださコーデだったのだが、勿論文句も言えない立場だったので大人しく指示に従った。
先生とは電車で一緒に小学校に向かった。色々話したと思う。
私は小3あたりから好きな男の子が居た。俗に言う、ジャニーズ系のイケメン君だった。学年で1、2を争うモテ男君だった。もう一人のモテ男君は運動神経抜群だった。その子の事もちょっと良いなと思っていた。ミーハー全開だった。
私がジャニーズ君の事が好きだった事は、学校の女子の間では有名だった。5年間ずっと同じクラスだったのはジャニーズ君ただ一人だけだった。
友達と一緒にバレンタインのチョコを作って、ジャニーズ君の自宅まで突撃し、あいにく留守だったので玄関の取っ手にチョコが入った袋を引っかけてみんなでキャーキャー言いながら帰った事があった。
ホワイトデーのお返しでは、よく分からん石の塊(キラキラしてて綺麗だったけどポロポロ粉が落ちて管理するのが大変だった)とお菓子を貰った。石は宝物になった。
林間学校では、夜肝試しが行われたのだが、くじ引きでなんとジャニーズ君とペアになった。ジャニーズ君の事が好きな他の女子から凄く羨ましがられた。私は顔のニヤけが止まらなかった。
肝試しでは手を繋いで歩かないといけないルールで、シャイボーイ☆ジャニー君は手を繋ぎたがらなかったので、私が無理やり彼の服の袖を掴んで引っ張っていった。写真担当のおっちゃんがカメラのフラッシュで脅かすゾーンがあったのだが、見事に驚き顔の私とジャニーズ君が写った写真は、今も実家のアルバムに収納されている。
そんな彼と会うのもこれで最後になった。
学校に着いたら、久しぶりに会うクラスのみんながお別れ会を盛大に開いてくれた。体育館でバスケをやって、私はミニバス所属だった事が嘘のようにうっかりトラベリングしてしまい、ジャニーズ君に「ズルだ!!」と言われて凹んだのだが、その時は1回のトラベリングはセーフというルールだったので私は違反にはならなかった。でもジャニーズ君は最後まで納得いかない感じだった。最後の最後で悪い印象を与えてしまって落ち込んだ。
バスケが終わると、体育館の壇上にみんな上り、私を中心にして集合写真を撮った。寄せ書きを貰い、仲の良かった友達が号泣しているのを見て私も号泣してしまった。寄せ書きには、ジャニーズ君も「唯一ずっと同じクラスだったから少し寂しいです」と書いてくれていた。
帰りはまた先生と一緒に電車に乗って、保健所まで戻った。
帰りの電車で私はずっとジャニーズ君にバスケで違反を指摘されて凹んだ事を話していた。先生は、「あれは今回はセーフってルールだから大丈夫なの!」って励ましてくれた。私は「でも・・・」「だって・・・」って終始ウジウジしていた。もう会えないのに、何をしょーもない事でいつまでも凹んでいるんだ、と今なら冷静に突っ込める。
先生とさよならするのも寂しかった。4・5年生の2年間担任だった間、落ちこぼれの私の事を凄く気にかけてくれたから。先生は自分の住所を書いた紙を私に渡してくれた。
近いうち、先生宛に手紙を書こう、と思った。
続く。
9)一時保健所での過ごし方~生活編~
食事は特に思い出が無い。すっかり食そのものに興味が無くなってしまった私なので。普通に集団で食べていたと思う。
お風呂は大浴場で数人ずつ順番に入っていた。時間制限が厳しく、慌ただしかった記憶がある。
一人、常に頭にバンダナを付けている子が居た。気にはなっていたが、お風呂の時にバンダナを外すと、その子の髪の毛はだいぶ抜け落ちていた。病気かどうかは勿論聞いていないので分からない。
一つだけその子の情報があるとするなら、その子自身が自ら話した事なのだが、この保健所に来たのは一度ではないとの事だった。多分年下だったと思うが、先輩と思って心強かった。
寝る部屋は4~5人部屋とかだったと思う。布団を敷いて寝ていた。
多分中一くらいの女の子が、寝る時にやたらと私にちょっかいをかけてきた。
「あそこにち○ち○入れた事ある?」と聞かれた。人生で初めて面と向かって下ネタを言われた。しかも女の子に。この子はそういう行為を強いられていたのかな、とぼんやり考えながら、あまり構わずに寝た。
長期間家族と離れ離れで過ごすというのも充分ストレスだったが、あまりにもこれまでの日常とはかけ離れた異空間での生活が耐えられず、布団の中でひっそり泣いた日もあった。
大浴場等の掃除も自分たちで行い、夜は2~3時間の自由時間が設けられていた。
フリースペースにはテレビや古い漫画等が置いてあり、お絵描き大好きヲタクの私は漫画を読み漁った。
私はそこで運命の出会いを果たす事となる。そう、「らんま1/2」だ!!
初めて高橋留美子作品と触れ合う事になった。当時の私には少し過激なシーンも結構あったが、とにかく絵が可愛くて話も面白くて、夢中で読んでいた。自由時間が楽しみになった。私の精神は漫画に救われていた。
寝る前の行いとして、一日の絵日記を書いてから寝るというのがあった。
私は絵が描ける喜びから、ルンルンで取り組んでいた。熱中しすぎて毎回他の子より時間を掛けて、自分なりの力作を生み出していた。
どの工程にも時間制限は設けられているため、あまりにも時間を掛けすぎるとせかされる事もあったが。
続く。